第五話

彼の記憶によると、その部屋は、
いつも果てしなくごちゃごちゃとしていた。
どこか動かした形跡があるようで、
いつも常に同じ場所にできた、同じ影を吸い尽くしたような
本やチラシ、雑誌、小銭。
彼女の好みか、
部屋の壁はエメラルドグリーンに染まっていたが、
少しばかり剥げた
その干からびた表面は、
妙に「味のある壁」になっているところが、実に憎たらしい・・・
と、彼は思った。
しかし、あえて口には出さない。
彼女を、褒めるつもりはないのである。
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「おまえ、何もわかってないな・・・。」 と、彼女はふてくされて、 あるかないかのベッドの上に 座り込んだらしかった。 「何が?」 含み笑いと共に、 彼は彼女に背を向けて 部屋を物色している。 彼女は頬杖をつきながら、 半ばあきれたような怒りを あらわにした。 「女の部屋をあさるなんて・・・ お前の倫理観はどうかしてるぞ。 しかも楽しそうだし ・・・ |
こういうのは、たとえば浮気調査だとか、
そういうときにするんだよ。あほたれ。」
「じゃあ、これは浮気調査だな。」
「は?」
何か耳を疑ったような、甲高い声での彼女の返答に
彼は「いや。なんでも」と笑ってつぶやいた。
あながち、嘘ではない。
しかし、単純に
彼女の読むものは
自分には興味がある範疇の本ばかりだと
彼は前々から気づいていた。
自分が読んだことのある本が、
彼女の持ち物の中に多く発見されたりするときが、
頻発する。
彼女の好みに、
背筋が震えるほどの感覚を覚えることも、
ままなきにしもあらずだ。
そんな偶然が、彼の彼女の本棚への興味を、
引き出していることには、
疑いようがない。
| 「・・・こんなに汚い部屋は見たことない。 ただ、 俺の部屋には負けるがな。 」 彼は新しく見つけた 自分の興味のある本を 二、三冊見繕って 本棚から出した。 |
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「お前のへやって、汚いのか??
意外だ。
社長なのに、掃除くらいしてくれるだろ? 」
と、彼女は彼の発言に思わず驚いた声を上げた。
「・・・そうだな。まあ、多少は・・・。」
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「召使とか、 ほら、おてつだいさんとか。 美人秘書とか。」 彼女はくるりと体を彼のほうへ向けた。 彼は、横目のはしで その様子を捉えながら 「ああ。いるぞ。わんさか。 」 と答えた。 「なんだ。じゃあ、 汚いわけじゃないじゃない。」 「いや、一瞬で汚くなったり 一瞬で片付いたりするわけだ。」 「??」 |
頭に浮かんだ謎を
解決するために答えを聞こうとするときの、
覗き込むような表情をする
彼女を、
彼は気に入っていた。
なぜか、
彼女が不思議だと思うこの時間、
大して生きるために
必要とはいえないだろうことを、考えようとするゆとりが、
この場所にはある。
今の彼には救いに思えた。

彼が一瞬で汚くなる、
といったのは、あながち嘘ではない。
彼は時折、何かに行き詰っては
綺麗に整えられた社長室の様々な装飾品を、
何の意味もなく破壊する。
粉々に砕け散り、散乱した本や書類を眺めると、
不思議と落ち着いてくる。
だが、あっというまに
誰かが訪れると
「まあ大変、お怪我はありませんか?
さあ、ちらかっているものを片付けなくては」
自分の行いたいと思うことを、
傍に必ず控えている秘書だとか、
多くの人々に支えられて為すことは、
物事を進めていく上では必要なことだ。
けれども、
全てが思い通りになるわけではない。
彼の行いたいことは、
多くの場合、その他大勢の商売敵によって潰されることもある。
いや、大半がそうだろう。
陰湿な手を使って、
精神的に陥れようとする輩は、
世界には吐いて捨てるほどいるからだ。
さらに、
時間は、刻々と迫っていく。
仕事では、
躊躇が許されない。
くだらない悩みは、
押し殺すことも必要だと、
彼は知っている。
自分の手に、多くの者の人生がかかっているということも・・・
ただ、
目の前に居る彼女に
彼の会社をめぐる世界の基準は通用しないことも、
彼は十分知っていた。
| 「・・・なんか、 今日はぼんやりしてるな。 水必要か? 横になってみるか??」 珍しそうな表情で、 彼女はひょこっと 彼の傍にたつと、 顔を覗き込むようにして 腰を曲げた。 「こんな辺境にくるから、 具合悪くなるんだ。 熱くっても逃げたくなっても、 クーラーは ここにはないんだぞ?」 その言葉は さりげなく 彼を追い払うようでもあり、 母親のように 体調を 心配しているようでも あった。 |
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こういうとき、何かはぐらかすために
彼女を怒らせたり
あるいは不機嫌にさせたり
笑わせたりすることも
いつもなら、できた。
けれど、
今日はそれをするだけの
気力はなさそうだ。
彼は、思わず微笑んで
棚の上の本へ目をやった。

「・・・この本は、俺も欲しかった。」
彼は、
もう彼女に通用しない価値観について
考えるのをやめている。
この場所では、
自由であることが許されるからだ。
「そうか。なら、これもおもしろいかもしれない。」
隣の棚から本を引っ張り出す彼女には、
もう彼に対する愚痴を言う気配は見られなかった。
つづく
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