「港遊郭髪結い夜伽」




春を売る。

などと子供にはわからないことを、
彼の周りの人間はしきりに口に出していた。

彼はぼんやりと、その妙な言葉を聞いている。
まわりには、前に暮らしていた場所と比べて
ずいぶんとしっかりした柱のある部屋である。
外はまだ明るかったが、じきに赤く熟れた鬼灯色に染まりそうな気配を秘めていた。

甘い香りが立ち込めている。

たぶん、おしろいの香りだ、と彼は思った。
どこからくるのか知りたくて、立ち上がると

「こら!動くな!!」

と、つれて来られた義父に頭をはたかれた。
思いのほか強い力で叩かれて、視界がぼんやりとぶれて
少年は黙った。

いつも、黙っていた。

それが、自分が存在するうえで最善の道だと知っている。
そんな少年の様子を見つめ
目の前に座る女はお歯黒でにやりと微笑んだ。

「まあ、いいだろうよ。こんな場所にいたってつまらないだろうし。
遊ばせてやりな。」
「だがねえ、こいつぁまだガキで。」
「おんなどもの憂さ晴らしになるだろうよ。
いっといで。」

少年はその言葉を聞いたとたん、立ち上がって一礼すると部屋を出た。

一刻もはやくあの男のそばから立ち去りたい、と願っていた。

正直、酒飲みで自分を遊郭に売ろうとする義父には
愛想が尽きていたからだ。
母は死んでしまい、もう彼に両親はいない。
泣くことはなかったけれど、寂しいと思った。
同い年くらいのこどもが、親に手をひかれて笑っていると
どうしようもなく切ない気分になった。

ひろいとこだ。

と彼はぺたぺたと床を踏みしめながら、観察を続けた。
庭は広く、ときどき女の声がする。
そして、ばっと大量の女達が現れると、わやわやと自分の周りに集まった。

「いややわああ。男がおる。」
「まだ子供やないの。男いうたって。」
「こっちおいで。あそんだげるから。」

さまざまな国の方言が
際限なく彼の周りをいきかった。
しきりに服をひっぱって、まるで珍獣扱いされている彼は、
つい甘い香りにむせ返って、
走り出した。

なんだ?ここ。

女ばかり。大人の女ばかりだ。

おかしくなりそうなほど、妙な場所。
なんだろう。ここは、と彼の疑問は止むことはない。
後ろをふりかえると、ゆらゆらと白い女達の腕がゆれていた。
誘っているようでもあり、そして遠ざけているようでもあり・・・。
辿り着いた誰もいない廊下の端で、息を切って倒れると、空が青くて妙に切なくなってきた。

春は来ない。


と彼は漠然と空の一点をみつめながら思っていた。

春は、来ない。
オレには・・・。

そして、かすかに瞳が涙で曇ってきたとき・・・。

「なにしとる。」

「!」

突然呼びかけられ、彼は勢いよく身体を起こした。
飛び起きたのは苛立った声の強さからではなく、
あまりの声の美しさのためだ。
澄んだ水音のような、緩やかでやわらかな響き。
そして
視界に入ってきた存在は、奇妙な存在感を放っていた。

だらりと着物を着崩して、ただはおっているだけ。
かすかにのぞく襦袢の赤と、際立つ白い肌が強く眼に焼きついて、
柔らかそうな髪は長く長くたれて、
造形は、人外の存在のように見えた。
ぞっとするほど美しいとは、このことだった。

彼女は名を玉露といった。
源氏名も同じである。
港町の人々は、彼女を玉露様といって遊女ながら崇めていた。

彼女は年をとらない。

それが、彼女を特殊たらしめる原因でもあった。





「ヤス!ヤスこっち!」
手を振る女達の髪を結う。
呼ばれた男は無表情のまま
その細長く綺麗な指で
さっさと仕事を済ませていく。
本来は、荷物や布団を運んだりする役割をこなしている。
「ヤス!あとでこっちも!!」
白い腕が振られて、
彼はちらりと腕を振った主の奥にある部屋をを見た。

あの部屋があるほう。
あのひとが、いる。

けれど彼は視線をすぐにそらす。
そんな心の奥底の感情を
人に漏らしたくないのが、彼の癖である。

しかし、女達の観察眼はそれ以上だった。

「まあた、ヤス!玉露さまのお部屋ばかりみて。」
「髪崩れさして、もう。いいかげん、あきらめなはれ。」
「むりむり。ヤスなんにもいわへんから。」
「だからときどき玉露様に、名前忘れられるんえ。」
「あんた男前んなったのにねえ。」

彼が、玉露と呼ばれる遊女を好いていることを
店の遊女達はみな知っている。
彼が子供のころ、彼女に言った言葉

「おれ、玉露さまを抱けますか?」

も、今では伝説的に語り継がれているほどだ。
幼いながらの一世一代の告白だった。

そして玉露の返事もまた、全て知られたことだった。

「お前に私が抱けると思うか?
もっと大きくなって出直せ!
そんなほそっちい体で
いっぱし女も抱いたこともない小僧が
十年早いわ!」

幼い彼はそのときから
以前よりも格段無口に拍車をかけたようだった。

彼が彼女に心酔していたことを知っていただけに
店の遊女達は心底、彼の気持ちを察した。
酒を飲みすぎると、口が悪くなるのが
玉露という遊女の癖だと、
彼は後になって聞いてなぐさめられた。

「十年」経てば・・・

彼は子供心に思っていた。
十年経ち、体を鍛えぬけば・・・。

そんな幼いながらの希望を、
遊郭の人間は見抜いていた。
特にこの遊女屋を仕切る女楼主は、玉露という特殊な遊女に目をつける男を
見逃してきたことはなかった。

金になるとわかれば、上客といえた。
この港町のしがない遊郭では、吉原ほどの型式じみた制度はなく、
金を積めば上玉はすぐに抱けるという、安易さだ。

しかし、この楼に売られた少年夜守吉は、
綺麗な顔をしているといって
数寄者に抱かせるようなことはせず、
楼のほとんどの仕事を行わせる職に付かせた。

玉露がここにいれば、彼は逃げることは無い。
そう読んだからでもある。

その読みどおり、ヤスは逃げることはなかった。
なんでも引き受けて、仕事をする。
髪結いも、仕事のうちのひとつだった。

女達のひそやかな応援の言葉を背に
無口な彼は、淡々と仕事を片付けることにした。
本当は、あの人の名前を出されただけで、顔が赤くなるのを隠すのに必死だ。



ここは吉江。
港町の遊郭で、決して吉原といった派手さはないが、
ちょっとした裏の有名どころとされた、地方の遊女屋である。

彼、ヤスと呼ばれるこの店唯一の男は、
遊女達の髪を結うと、早速日課の巻き割りから始めることにした。





「今日は暑いかえ?」


と、呼びかけた声に驚いて、
彼はその主が立つ真昼の日の光のなかの縁側を見た。

庭で巻き割りをしていた彼は、顔を赤く染める。
だらだらとした着物を着崩して、縁側にへたりこむひとは、
持っていた酒を派手にあおった。

真っ白な肌が、風にあおられて見つめる彼には、爽やかなのになんとも官能的に見える。

海風はかすかにべとついて、あまり自分には爽やかとはいえないが
彼の顔の熱を覚ますには十分すぎるほどだった。

あわてて目をそらした。

必死で目の前にある薪を割ることだけに、集中する。
おもわず違うところに斧の刃をいれてしまいそうだ。
ひどく甘い香りが
風に流されて彼の頭の芯をしびれさせた。


「うすぎ。」

と、指をさして彼女は彼の着物をはだけさせた上半身を見つめていた。

視線に、彼は硬直して薪を割る手を止める。
縁側に座り込む彼女は、どこか昼の光を遠ざけているように見える。

深い、そして暗い海の底で暮らしているような

そんな雰囲気を持っていた。

ときどき、彼はそんな彼女を見ては
『自分も同類だ』
と思うのである。

「玉露様。」
「あんた誰?」
「・・・。」

これを毎回言われる苦しさも、峠を越えたと思い込んでいたが
一向に苦しくて仕方がない。
そのくせ

「ヤスです。」

というと、ぽんと手をうって「ヤスか!」と言ってにこにこ微笑む。
そしてその日はずっと覚えていてくれるが、
次の日には忘れている。

女達はおそらく酒のせいだという。
自分もそうだと思いたい。

他の女達のことは覚えていて
自分のことだけぽっかり抜けているなんて。

「なんじゃ、ヤスは大きくなって。」

と、縁側から裸足で降り立ち、土を踏みながらそばによってくる。

「ほんとにヤスか?」
とまで眉をひそめながら聞いてくる。

「始めてあったときはこーんなにちっさかったのに。
このでっかい体の中に隠れとるんじゃろ。ヤスは。」

と言って、にこにこしながら柔らかい手で胸やら腕に触れてくる。
ヤスは真っ赤になって、唇をかみ締めた。

はだけた着物から、豊かな白い胸が見え隠れしている。
何度、男達がその胸に触れ抱いていったのだろう。

柔らかい曲線を描いた肩に、
桜色の唇に、
今自分の肌に触れる手を、
腕を背にまわして

何度抱かれたのだろう。
このひとは・・・。

と彼はいつも考えてしまい、そしてあわててその気持ちを隠そうとした。
艶やかな喘ぎ声がする夜の彼女の部屋を思い出すだけで
どうしようもない気持ちで狂いそうになる。

抱けない自分。

抱くことを拒否されながら
そばにいることしか出来ずに・・・。

誰かに抱かれ、誰かの夢を見るひと。

そんな人に、俺は
いつももてあそばれて、いる?

そう思うと、もうどうしようもない気分にならずにはいられない。
けれど無口で、感情を表さない彼にはどうしようもないことだった。

どうにかしたいとも、思えない。

そんなことをすれば、この場所にいられなくなるかもしれない。

遊女(うりもの)に手を出すことは、子供のころから禁じられているからだ。
禁じられたことに手を伸ばせばどうなるのか。

そんな恐怖もあった。
彼が、感情を押し殺して無口になった理由の一つがそれだった。
いや、他にも原因はある。
子供心にうつくしいと思い、感動し、そして密かに恋心を覚えた彼の
目に映った現実は


愛するひとが他の男に抱かれている光景、だったのだから。




わかっていた。


本当はわかっていた。
この場所が、どういう場所なのかということを。

けれど認めたくなくて、あの日、廊下を走ったのだ。

女達の手から逃れて。
おしろいの甘い香りから逃れて。
そして、行き着いた先にいた美しい人に
できるならこの場所が、天竺かなにかだったらと
強く深く願ったのだ。

一瞬にして、幻想は打ち砕かれた。


彼の思い出。
そして現実。


「筋肉。」

と、彼女は彼の上半身に触れながらつぶやいていた。
うつろな風情の彼女を、彼は悲しく見つめるしかなかった。
どこか現実離れしている雰囲気を、
周りの空気に溶かしている。
そんなこともあり
彼女は特別な存在として、この界隈では珍重されていた。


実は年をとらないという。


その経緯はようとして知れないが、噂を聞いたところ
どうやら人魚だとかで、海からやってきたのだとか、そんなことを聞く。

あながち間違いではなさそうな、美しさのせいもあろうか。
誰一人、否定したものはいなかった。
そのため売り値は高く、地方の大名二人の金でやっとといったところだ。

オレに出せるわけがない。



「抱いてってくれ。」



と、突然はっきりした言葉で玉露が命令したのを聞いて、
彼はびくっとすると彼女と目をあわせた。

「あっち。」
と縁側を指をさし、そして汚れた足を見る。

気まぐれの言葉を、彼女は常に彼に投げかけた。
真意がどこにあるのかもわからない。
ただひたすら、遠くをぼんやりと見つめているひとだった。

無言で彼は彼女を抱えた。
恐ろしいほど心臓が、脈が波打っている。

こんなことも今日が初めてではないが、
彼女の髪を結うその時でさえ、いつでも脈のリズムは激しく波打った。
柔らかい体と、甘い香りが一瞬にして彼を包み込んでいた。

おかしくなりそうになる。

「ヤスはずいぶんしっかりした体になったの。」

玉露は夢うつつに微笑みながら、彼の首の辺りに両腕を回した。
背を、細い指が這う。
縁側に腰を下ろさせながら、彼は彼女を抱いているような感覚に襲われた。

解放しそうになる欲望を閉じ込めて、彼は桶に井戸から水を入れると
彼女の汚れた足を丁寧に拭いた。

「ヤス。」
「はい。」

呼びかけられて、答える。次にどんな言葉がくるのか、
彼女の場合はまったく検討がつかない。
けれど、大抵はぐちか、妙なことばかりだ。
しかし、

「もうかまうな。」

「!」

顔を勢いよくあげると、彼女は悲しそうに微笑んでいた。
酒に流されず、しっかりとものを考えているときの表情。
 
もうかまうな?

彼は呆然として、表情を硬くした。
玉露は淡々と、彼を目の前に語りだす。

「おまえはいつも、わたしのそばにいようとした。
けれど、お前はもう大きい。
もう、いいだろう?」


もういい?


彼は拳を強く握っていた。

何が、もういいというのだろう。
春に最も近い場所といわれて
その場所に暮らしているというのに、
春はいつまでも
誰かに奪われたままなのに。

かまうな?
もういい?

ぎりりと歯を食いしばって、彼はにぎりしめた布を強く投げ捨てた。
両腕でぼんやりした視線の彼女の腕をつかむと、
懇願するようにつぶやいた。

「なにが、もう、いいんですか?」



まだ、何も!



風が、ゆるやかに吹いた。
すでに昼の暖かな気配はうせている。

彼はただ無言だった。

しばらく、無言だった。




そばにいたいと思った。
ずっと、どんなことがあっても、
どんな男に彼女が抱かれても、

そばにいたい。
そう思った。


だから、なにもできない。


彼はいつも無表情で無言になる。
押し倒した彼女の背に手をあてて、起こした。
うつむいて、目を合わせないまま彼は押し殺した声でつぶやく。

「あなたのそばにいたくて、ここにいるのではありません。」



虚言、だった。



強がりだったのかもしれない。
自分が傷つけられた腹いせに、彼女を突き放したくて。
けれど決して、そんなつもりはない。

だから

彼女の眼を見つめることはできない。
いつのまにか海のほうへ、視線を流していた。

「生きていくためです。」

もっともらしい、言葉だった。

けれど、きっとこのひとのために死ぬことはできるのだろう。



「・・・そうか。思い違い、か。」

と玉露はぼんやりと彼をみた。
がっしりとした体格と、切れ長の美しい瞳と
無表情の奥に秘めたなにか。

彼女はかすかにため息を漏らすように
彼のすべてを見つめた。


「十年。はやいものだ。」


媚びた言葉遣いをせず、彼女はそろそろ暮れるであろう
西の空を見つめた。

「ヤス。髪を結え。今日は仕事だから。」
「わかりました。」

彼は、あの部屋へ帰っていく彼女の後をついて歩いた。







彼女に与えられた個室で髪を結いながら、
彼は彼女の白いうなじを見つめる。
いつも、触れられる場所にありながら
あえて髪以外触れることをしない。

彼女は個室で髪を結われながら、
いつもまどろむような快感を味わう。

彼の指はやさしく、
ただひたすらにやさしく髪を撫でていく。

このときだけが、確実に彼が彼女に触れる
ほぼ唯一の時間であることを
彼女は当の昔に知っているし
忘れたこともない。



「そういえば」、と切り出して
彼女はぼんやりと窓の外を眺めながら囁いた。



「お前、十年経てば私がお前を抱けるとおもっとるようだが、
お前はそれだけ器用になったか?」

器用。

と頭の中で繰り返す彼の、髪を結う手が止まっていることに気づいて
玉露は苦笑した。

「女を抱いて気持ちよくさせる自信があるのか?ということだ。」

と、言い直す。
相変わらず直球で言葉を投げてくるひとだと彼は思って、
心底顔が熱くなることを恐れた。

「いえ。」

答えに、彼女はかすかに頬をゆるめる。
体の力も、微かに抜けた。

無論彼の意思としては、彼女を最初に抱きたい願望がある。

「抱けますか?」と聞いたときから、
いや、そのずっとまえから彼は、
彼女を最初のひとにしたいと思っていた。
他の女を抱くことなど、考えたことも無い。

「私の口、吸ってみるか?」
「は?」

「ちょっと酒飲んでくか?」ぐらいの勢いで、
彼女は振り向くと彼を見つめた。
思わず引いてしまいそうになるが、
それ以上にこんな言葉を自分にこのひとが言ったのだということが
妙な驚きを生んで彼を硬直させていた。

白い肌で、これから誰かのものになるために、
彼は髪を結った後でおしろいと紅を
丹念に引くことになる顔が
目の前にある。

おそろしいほど深い魅惑を秘めて、
まっさらな、売り物でない彼女の唇は、いつもほのかに桜色だった。




春の色だった。




彼は躊躇うことをせず、不器用で乱暴ながら
やさしく唇でその色に触れた。

ほんの一瞬だけ、だった。

それから唇をそっと離すと、微かに彼女の唇の色が濃くなっている。
彼女は抵抗などしたりはせず、
堂々として身動きひとつしない。


困った少年のように彼は、彼女の眼を見つめる。
それで?といった表情で、
まるで蚊でもとまったのか?
といった感じだ。

いつでも、馬鹿にされている。

そう思うと、彼ら二人以外に人のいない部屋で
彼の心の奥底に、火が灯された気がした。
肩を強引に抱き寄せて、その唇を奪った。


そしてそっと、唇を離した彼に投げられた言葉は

「へたくそ。」

だった。

もちろん、長年遊女をやってきた彼女にしてみれば、
何の技巧も無い口づけが、「へたくそ」なのもうなづけるが
彼は無言で押し黙ると、その場に正座をしてかすかにうなだれた。

最悪の回答。

けれどなにも反抗するつもりはない。

「こんなに遊女がいるなかに育ってその有様では、
楼主も影で涙を流すぞ。」

と説教を始める彼女には、逆らうこともできない。
それ以上に逆らう気力が全て奪われた気がした。

春はそばにあるけれど
眺めていたい。
ただそれだけでいい。

ささやかな幸福。そしてそれ以上望むつもりもない。

望むつもりも・・・?




「馬鹿だなあ。ヤスは。」

との言葉に、彼は思っていたことを全否定された気がして
思わずうつむいていた顔をあげた。

彼女は、

笑いながら、
けれど決して突き放した高慢な笑みを見せない。
いつも、言葉が凶暴で率直すぎて
どうしようもないと思っても
どこかで許せてしまう。


この微笑なのか、美貌なのか、あるいはそれ以上の何か・・・なのか。


彼にはわからなかった。
ただ、そばにいて
ずっとそばにいて
離れたくない、と思っているだけだった。


「じっとしておれ。夜守吉。」

と、当の想い人は猫が近寄るように
白い膝をたたみに突いてにじりよってきた。
そろそろと彼の膝の上にのってくる。

彼女の体が、ぴったりと彼の体に密接し
服を通して互いの体温を感じた。

一体なんのマネだろうと考える前に、
彼は何も言うことができなかった。




「おしえてやる。」




と言って、唇が触れるくらいそばで。

極上の甘い微笑を見せる。


思わず息を呑む暇も無く
再び、桜色の唇が彼の唇に押し当てられた。

舌をそろりとさしいれられ、彼は

夕日の光が差し込む部屋で

体の芯から陶酔した。

彼の十八番のだんまりを二人で決め込んで
互いの舌をそっと絡めあうだけで、
それが二人にとっての言葉だというように
ふたりはしばらくそのままでいた。


けれど彼のなかでは
彼女の香りがどうしようもない焦燥を生んでいた。

まだ今日は誰にも抱かれていない彼女が、
まるで自分だけのものになった気がした。




春は、すぐ目の前にあるのに。




何をしているのか、何をされているのか、
彼女は、自分の事を・・・?


そんなおもいがよぎって、考えに流されるように思わず彼女の服に手がかかったとき

彼女の唇は離された。

軽い平手打ちが頬に飛ぶ。



「なにやっとる!まだお前には早い。」



そういいながらそむけた彼女の顔が赤いことに、
無表情で頬を押さえた彼は気づいていただろうか。

そんな玉露はじっと襖のほうを見るとため息を吐いて呼びかけた。




「お前らもそんなところで物珍しそうに見るな!」




すると、ばたばたばたっと襖のほうで音がして
すーっと襖が開くと、
なにやらにやにやと嬉しそうな遊女達が二人を見据えていた。


「いややあ。玉露様、気にせずつづきをしてくださいませな。」
「ああーん、もう今日はこれでおなかいっぱい。仕事おやすみにしてほしいわあ。」
「もう、玉露様をひとりじめにするなんて。ヤスもすみにおけんわあ。」




「そんなこといっとらんで、このへたくそに教えてやれ。」




と、顔をかすかに赤らめて玉露はヤスの服をつかむと、襖のほうへひっぱる。

ヤスは恥ずかしさと、まだ彼女の唇に触れた感覚がのこる
現実離れした感覚に、
無表情ながらひどく顔が赤い。


なにやら初々しい二人の姿を、物珍しそうに遊女達は見て微笑んだ。







それからいまだ、春は彼にはやってきていない。
けれどいつか、彼にとって一番の春がやってくることを
彼は密かに願わずにはいられなかった。









*あとがき*
2000ヒット踏みお祝いということで、作成いたしました「港遊郭髪結い夜伽」です。
結構永くかかってしまったことを深く深く
おわびもうしあげます。
そしてちょっと長い内容となってしまいました。
この発端はけっこうむかしに考えていた遊郭ものの話だったということを
ここに記しておきます。(ちなみに原作は小説ではなく漫画でした。)
ちょっと強気なおねえさん(かなりサディスティック??)と
年下の青年のむくわれるか?な恋にしたつもりです。

気に入っていただけましたら光栄至極です。
それでは、ここまでよんでくださった
方々に感謝しつつ。
ありがとうございましたv


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